2014年05月05日

「死の縁」の縁

もうずいぶん前のことのように感じられるけれど、銕仙会能楽研修所竣工30周年特別
公演第一日『朝長』のこと。

演能前に書こうと思っていて、後になってしまった。

後になってわかることもあるし。



国立能楽堂4月パンフレットの『鵜飼』の「鑑賞の手引き」の欄に、

村上湛氏が、「シテが前後別役の能は、世阿弥作に、『養老』『当麻』があり、

以後、元雅の『朝長』、信光の『船弁慶』などこの形式を効果的に活用した例が見ら
れます。」と書かれている。

『朝長』の作者については、例えば観世流の謡本には「世阿弥となっているが、それ
は違うだろう」と「作者不詳」とされ、

2012年発行の能楽大辞典では「作者については、元雅の説もあるが、未詳であ
る」とされている。

しかし、30周年記念公演二日目の『俊寛』の時に、西野春雄先生は、『朝長』も『俊
寛』も元雅作でよいのではないかとお話に。

さて「元雅説」は。



『朝長』は、美濃の国青墓で死んだ朝長の墓所で、縁のある人が行き逢い、共に弔う
シーンから始まる。

その『朝長』の初同(初めの地謡)



「死の縁の 所も逢ひに青墓の

 ところも逢いに青墓の

 跡の標か草の蔭の

 青野ヶ原は名のみして

 古葉のみの春草は

 さながら秋の朝茅原

荻の焼け原の跡までも

げに北邙の夕煙 一片の雲となり

消えし空は 色も形も

亡き後ぞ哀れなりける

亡き後ぞ哀れなりける」



この後、朝長の自害を看取ったシテー青墓の宿の女長者―が、その夜の有様を語り始
める。



「死の縁」という言葉は、元雅作が確実な『隅田川』(シテの「クドキ」)でも登場
する。



「今まではさりとも逢わんを頼みにこそ

 知らぬ東に下りたるに

 今はこの世に亡き跡の

 標ばかりを見る事よ

 さても無残や 死の縁とて

 生所を去って東のはての

 路の傍の土となりて

 春の草のみ生い茂りたる

 この下にこそあるらめや」



シテの母親が、ワキの語りで、自分の子供の死を知り、その墓の前に連れて行かれ
て、嘆くシーンでの言葉。

「死の縁」という言葉が、それぞれ効いている。



『朝長』の初同で出てきた「草」という言葉も、『隅田川』では、シテの母親が子供
の亡霊を見た後のラストシーンで効果的に使われている。



「互いに手に手を取り交わせば また

 消えきえとなり行けば

 いよいよ思いは真澄鏡

面影も幻も 見えつ隠れつするほどに

東雲の空もほのぼのと明け行けば 跡絶えて

我が子と見えしは 塚の上の草 茫々として

ただ標ばかりの浅茅が原と

なるこそ哀れなりけれ

なるこそ哀れなりけれ」



また、静かなシーンだけでなく、動きが強調されるシーンでともに〈下げ歌〉の静か
な中にかかっていく音曲的効果を効果的に使っている。



『朝長』シテの語りの後

「これを 最期のお言葉にて こときれさせ給へば

 義朝正清とりつきて 嘆かせ給ふ御有様は

 外の見る目も 哀れさを何時か忘れん」



『隅田川』シテの先ほどのクドキの後

「さりとては人々 この土をかへして今一度

この世の姿を 母に見せさせ給えや」



ただシテが立っている、あるいは座っているシーンでの無常観を感じさせる地謡の
「上歌」にも共通する要素がある。



始めに挙げた『朝長』の初同の「上歌」と、

『隅田川』の先ほどの掘り返してくれという激しい「下歌」の後の「上歌」



「残りても かひあるべきは空しくて

 かひあるべきは空しくて

 あるはかひなき帚木の

 見えつ 隠れつ 面影の

 定めなき世の習ひ

 人間愁いの花盛り

 無常の嵐 音添ひ

生死長夜の月の影

不定の雲 覆へり

げに目の前の浮世かな

げに目の前の浮世かな」



少ししか動かないそれぞれの曲のここの演戯は実にやりがいがある。

これこそ能でしかできないこと。



さて、元雅は自分が親よりも先に逝くと思っていたのだろうか。

そう、『朝長』ではシテが、『隅田川』ではワキが、人の死の至る最期を語る「語
り」という戯曲の構成でもこの二曲は一致する。



「人の死を語ることによって、死者と和解する」という、『朝長』の時の赤坂憲雄さ
んのお話し。

観世元雅は、それを願っていたのだろうか。



能役者は、死の語り部の役なんでしょうね。

何度でも、生まれて、死んで。
posted by しみかん at 22:50| 日記